ふるさとを拓本

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6 石川啄木歌碑の拓本(平成18年岩手県盛岡市盛岡城跡公園)


石川啄木歌碑
↑石川啄木歌碑
石川啄木歌碑の拓本
↑石川啄木歌碑の拓本

【碑文・拓本の内容】
 不来方のお城の草に寝ころびて
 空に吸われし
 十五の心
            啄木

【碑文・拓本の解説】
 この碑は啄木生誕七十年を記念して、昭和30年10月5日に、盛岡啄木会が中心になって建てられた。歌を揮ごうしたのは、啄木の親友で言語学者の金田一京助である。
 啄木は盛岡中学時代、よく学校を抜け出し、盛岡城跡(注1)に逃れては独り文学書や哲学書を読みふけった。
 そうした多感の盛岡中学校時代を思い出して後年に詠んだのが「不来方(こずかた)のお城の草に寝ころびて…」の歌なのである。

 注1:盛岡城は昔、不来方城(こずかたじょう)と呼ばれていた時代がある。現在は、岩手公園または盛岡城跡公園と呼ばれ、桜や紅葉の名所、市民や観光客の憩いの場として親しまれている。

 石川啄木(いしかわ たくぼく)
 1886(明治19年)〜1912(明治45年・享年27歳)
 本名は一(はじめ)。他に翠江(すいこう)、麦羊(ばくよう)、白蘋(はくひん)の筆名がある。
 明治19年2月20日、南岩手郡日戸村(現盛岡市玉山区)の日照山常光寺で生まれる。
 盛岡中学(現盛岡一高)を中退し、文学を志し明治37年上京するが病気のため帰郷し、母校渋民小学校の代用教員になる。
 明治38年5月処女詩集「あこがれ」を出版、啄木の名を広める。同38年6月節子と結婚。
 啄木の教育方針が校長に受け入れられず、40年5月郷里を捨て北海道函館に渡る。その後41年4月上京し42年3月朝日新聞社の校正係となる。明治45年4月13日東京小石川区の借家で若山牧水にみとられながら薄幸と流亡の生涯を閉じた。
 著書は「一握の砂」(明治43年12月)、「悲しき玩具」(没後明治45年6月)など。


7 宮沢賢治詩碑の拓本(平成18年岩手県盛岡市盛岡城跡公園)


宮沢賢治詩碑
↑宮沢賢治詩碑
宮沢賢治詩碑の拓本
↑宮沢賢治詩碑の拓本

【碑文・拓本の内容】
「かなた」と老いしタピングは
 杖をはるかにゆびさせど
 東はるかに散乱の
 さびしき銀は聲(こえ)もなし

 なみなす丘はぼうぼうと
 青きりんごの色に暮れ
 大学生のタピングは
 口笛軽く吹きにけり

 老いたるミセスタッピング

  こ ぞ
「去年なが姉はこゝにして
 中学生の一組に
 花のことばを教へしか

 アークライト
 弧光燈にめくるめき
 羽虫の群のあつまりつ
 川と銀行 木のみどり
 まちはしづかにたそがる

           賢 治

 ※青字部分は採拓し忘れた部分で、碑文には刻まれている(^_^;)

【碑文・拓本の解説】
 1970(昭和45)年9月21日建立・10月21日除幕(建立者 賢治の詩碑を岩手公園に建てる会)
 賢治自筆(ペン字拡大)・水沢鋳物工業協同組合製作

 詩に刻まれているタピング一家は、明治40年に来盛(夫婦は明治27年アメリカから来日)。夫人は盛岡幼稚園を創立し、タピング牧師は宣教のかたわら盛岡中学校で英語を教えていた。
 賢治が盛岡中学1年の時、タピング牧師は英語教師を辞任したが、盛岡高等農林学校1年の時、啄木は同級生を誘い、タピング牧師が開いていたバイブルの講義を聞いている。

「かなた」と老いしタピングは、タピング牧師
 大学生のタピングは、タピング夫妻の息子
 老いたるミセスタッピングは、タピング夫人
 なが姉(長女)は、タピング夫妻の長女
 を指しており、老、若、老、若、と詩が続き、最後に街が暮れていく様子を示し、時の流れを感じさせる構成になっている。
 東はるかに散乱の、とは大正12年に起きた関東大震災のことを指しているのだろうか? タピング夫妻はこの震災で横浜に新築した自宅を被災されている。
 さびしき銀は聲(こえ)もなしの「銀」は、いったい何を意味しているのだろうか? 銀といえば食器か? メガネ? 聲を音と考えれば銀の鈴か? いろいろ考えた末、もっともピッタリあてはまった答えは「銀髪」であった。タピング牧師が銀髪であったかどうかは定かではないが、もしこの銀が「銀髪のタピング牧師」を意味しているのなら、スッキリと詩の意味が通ることになる。
 
 宮沢賢治(みやざわ けんじ)
 1896(明治29年)〜1933(昭和8年・享年37歳) 詩人・童話作家・花巻市出身
 盛岡中学(現盛岡一高)をへて大正7年、盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)を卒業。同校研究生として残り土性調査に従事、大正10年上京して国柱会に入る。妹トシの病気の報に接して帰郷し、同年12月花巻農学校の教師となる(大正15年退職)。
 昭和2年、羅須地人協会設立。3年、肋膜炎で病臥。6年、東北砕石工場の技師となる。同年秋に石灰普及のために上京中倒れ、死を覚悟して手帳に「雨ニモマケズ・・」を記した。
 昭和7・8年の晩年は全作品の主題を文語定型詩化に努めた。昭和8年9月21日、肺結核が悪化して死去。享年37 歳。
 著作は「春と修羅」(大正13年4月)、「注文の多い料理店」(大正13年12月)など。


8 追分の碑(平成18年岩手県花巻市花巻温泉・花巻市指定有形文化財)


 花巻温泉には詩碑、歌碑、句碑など数多くあるが、是は唯一現代の道標ともいえる追分の碑。この地方で最も古い碑として伝えられている。
追分の碑
↑追分の碑
追分の碑 の拓本
↑追分の碑 の拓本
追分の碑 の案内板
↑追分の碑 の案内板

【碑文・拓本の内容】
 右ハ山みち
 左ハゆのみち

【碑文・拓本の解説】(上記写真案内板から抜粋・加筆)
 この碑は、本来は松山寺手前から台山入会地に向かう山道と湯の里と呼ばれていた台温泉(だいおんせん)に折れていく道との分岐点に建てられていたものと考えられている。大正以来、花巻温泉の開発に伴って何度か移転した末、現在地(ホテル花巻とホテル千秋閣の間)に納まった。
 裏の銘文は風化により判読できなくなっているが、建立者である松井道円(友梅に同じ)の子可敬がまとめた「台温泉一見記」によって、元禄十年(1697)の建立であることや、そのいきさつを知ることができる。

 この石碑は、現在市内で確認されている道標のうちでも最も古いもので、これによって江戸時代前期の当地方の交通・温泉の事情を知ることができる。
 また、同時代に医師として花巻城に仕え、詩歌や郷土史を作って花巻地方の文化興隆に大きく貢献した松井道円の事績をうかがえるなど、歴史的に高い価値がある。

元禄十年四月二日(1697)建立
 筆者 雲洞(江戸在住)
 文案 友梅(松井道円の別名)
 築造 平賀次郎左衛門
 建立 松井道円


9 九條武子歌碑の拓本(平成18年岩手県花巻市花巻温泉・ばら園)


 NHKの朝ドラ「花子とアン」で一躍話題となった柳原白蓮と同じく大正三美人に並び称される九條武子の歌碑である。ばら園の高台にひっそりと佇んでいる。
九條武子歌碑
↑九條武子歌碑
九條武子歌碑 の拓本
↑九條武子歌碑 の拓本
九條武子歌碑 の案内板
↑九條武子歌碑 の案内板

【碑文・拓本の内容】
 まろき山
   みどりふかぶかと
       いくへかも

 ここのいでゆの
     ながめ
       すがしも

           たけ子 (変体仮名で、「た」は「堂」のくずし字、「け」は「希」のくずし字が使われている)

【碑文・拓本の解説】(上記写真案内板から抜粋・加筆)
 昭和2年9月盛岡での岩手仏教婦人会の大会に招かれ、その翌日来訪。湯と山々の景色が大変気に入りこの歌を残した。

 句意
 丸い山が 緑深々と 幾重にも重なっているなあ
 ここの出湯の眺めは すがすがしい(清々しい)ことよ

 句末のすがしもは「清しも」で、「すがすがしい(清々しい)ことよ」の意。

 九條武子(くじょう たけこ)
 1887(明治20)〜1928(昭和3) 京都生まれ 歌人
 西本願寺の法主・大谷光尊の次女。九条良致に嫁いだが、長く独居生活を送る。短歌は佐佐木信綱に師事し「心の花」で活躍。


10 巖谷小波(いわや さざなみ)句碑の拓本(岩手県花巻市花巻温泉・釜淵の滝)


 花巻温泉の名所「釜淵の滝」を俳人・巖谷小波は「大釜や・・・」と詠んだ。台川の清らかな水が、玉すだれのように数条に流れる様は、涼やかな清風となり快い気持ちになる。この釜淵の滝や台川は宮澤賢治の作品にも登場する。
巖谷小波句碑
↑巖谷小波句碑
巖谷小波句碑 の拓本
↑巖谷小波句碑の拓本。句碑を水で濡らして紙を貼り、墨をのせたところ
巖谷小波句碑 の案内板
↑巖谷小波句碑 の案内板

【碑文・拓本の内容】
       わ     みずけむり
 大釜や 滝が沸かせる 水煙
                 小波

【碑文・拓本の解説】(上記写真案内板から抜粋・加筆)
 大釜は釜淵のこと。その名にちなんで、水煙を釜からあがる湯気に見たてている。
 季語は滝で夏。

 巌谷小波(いわや さざなみ)
 1870(明治3)〜1933(昭和8) 東京生まれ 児童文学者・小説家・俳人
 児童文学作家として活躍しつつ、少年雑誌の編集や、内外のお伽噺の全集をまとめるなど、児童文学の各分野で先駆的な役割を果たした。童話、小説のほか、句集「さゝら波」を持つ。

 台川(だいかわ)と釜淵(かまぶち)の滝
 ・・・「もうでかけませう。」たしかに光がうごいてみんな立ちあがる、腰をおろしたみぢかい草、かげろふか何かゆれてゐる、かげらふぢやない、網膜が感じたゞけのその光だ、・・・(宮澤賢治著・童話「台川」)
 「台川」や「釜淵の滝」付近は、童話「台川」の舞台。農学校の教師をしていた宮澤賢治は生徒を連れて野路を歩き台川をさかのぼってここ釜淵の滝あたりまで地形や岩石などを調べに来た。
 「台川」はその時の野外授業の一部始終。生徒たちの心の動きや自然との交感を、歩行者の目で実にいきいきと表現している。

 碑めぐりコース
 @巌谷小波 A高濱虚子 B下村海南 C与謝野晶子 D与謝野寛(鉄幹) F大野林火 G吉井勇 H金子兜太 I山口青邨 J清水不棲魚

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