学問の神様として著名な盛岡天満宮の境内には、芭蕉の句碑や啄木の望郷の歌碑等多数の記念碑が建っている。今回は私の郷里宮古にゆかりをもつ小野素郷の句碑の採拓を紹介する。
【碑文・拓本の内容】
思無邪
梅開柳青
免ハ夢も那し
松濤
【碑文・拓本の解説】
梅開き 柳青めば 夢もなし
句意はいろいろな解釈があると思われるが、冒頭の「思無邪(しむじゃ)」は「思いの中に邪念はない」という意味であるから、次のように解釈するといいのではないだろうか。
「梅の花も開き、柳の芽も出て新緑となれば(即ち春が来たならば)、他に何の夢(望み)があるだろうか(これ以上何も望むものはない)」。
末行の「松濤(しょうとう)」は小野素郷の別号。
碑は、素郷(そきょう)の子・通久(みちひさ)が門人らとはかって、素郷の27回忌に当る弘化3年4月29日に建立された。
岩手の歴史家・新渡戸仙岳(にとべ せんがく)は、石川啄木が発行した文芸雑誌「小天地」の中で、「小野素郷は我が盛岡における俳壇の偉人たりしのみにあらず、実に日本の俳壇に於いてはその姓名を没すべからず傑出の俳人なり」と論じている。
小野素郷は江戸時代中期に活躍した盛岡出身の俳人で、晩年には、文事にも造詣が深い盛岡藩第11代藩主・南部利敬(なんぶ としたか)公から厚遇された。
利敬公が文化7年(1810年)、城下の津志田(つしだ)に大国(だいこく)神社を建立した際には、小野素郷を社家(しゃけ・神職)として迎えた。利敬公をはじめ多くの文人が小野素郷を訪ねて津志田に集まったといい、盛岡の文芸の中心となったのではないかとも考えられている。
大国神社には数百本の桃の木が植えられ、また同じく利敬公により文化10年、大国神社より街道沿いに南へ2〜3kmほど離れた見前(みるまえ)の地に恵比寿(えびす)神社(※1)を建立した際には街道の両側に沿って多くの梅の木が植樹されたというから、小野素郷の晩年は花に囲まれて過ごしたのではないかと考えられる。
小野素郷と南部利敬公は親子ほど歳は離れているが(33歳ほど素郷が年上)、文政3年(1820年)奇しくも同じ年に二人は亡くなっている。
余談になるが、後の第13代藩主・南部利済(としただ)の代になって津志田には遊郭が築かれた。明治期の歴史家・新渡戸仙岳は、中国の桃源郷「武陵桃源」に対し津志田を「杜陵桃源(とりょう とうげん)」と称している。
(※1)現、盛岡市東見前第1地割16(国道4号沿い)にある今宮神社。祭神は蛭子之命(えびすのみこと)。創建当時の恵比寿神社は、明治3年官命により盛岡天満宮の境内へ移された後、明治35年盛岡天満宮の飛地である現在の場所へ移されたとのことで、創建当時の場所は現在地とは異なっている。
小野素郷については、前述の
(3鴨塚の碑の拓本)も参照を。