ふるさとを拓本

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16 石川啄木歌碑の拓本(平成19年 岩手県盛岡市玉山区渋民・斎藤家前)


 岩手大学で啄木講座があった時、斎藤家の御主人とご一緒になった。その後、数回お会いして親しくなり、歌碑の採拓をお願いしたところ快く承諾してくださった。そのとき御主人は「渋民村(しぶたみむら)の名称を残したくて渋民村の字句の入った短歌を選んだ」とおっしゃっていた。

石川啄木の歌碑
↑石川啄木の歌碑
石川啄木の歌碑の拓本
↑石川啄木の歌碑の拓本
石川啄木歌碑の傍らにある解説板
↑石川啄木歌碑の傍(かたわ)らにある解説板には、斉藤家へ下宿した経緯を示す啄木の言葉が記されている

【碑文・拓本の内容】
 かにかくに渋民村は恋しかり
 おもひでの山
 おもひでの川
             石川啄木


【碑文・拓本の解説】
 「かにかくに」は「あれこれと」。「渋民村」(しぶたみむら)は啄木が生まれ育った土地。啄木が故郷をなつかしむ心情を歌ったもの。
 この歌碑は、啄木が渋民小学校代用教員のとき下宿した旧渋民村斉藤家の庭に建立されている。昭和29年に、石川啄木の処女小説の題名を付した(※)映画「雲は天才である」(監督・中川信夫。主演・岡田英次)の撮影を記念して建てられたものだ。
 (※映画の内容と小説の内容は異なる)。
 碑の右側面には「明治39年3月4日より明治40年5月4日までこの家に起臥せり」、左の側面には「昭和29年5月有志建立」と刻まれてあった。
 歌碑の傍らには、斉藤家へ下宿した経緯を示す啄木の言葉が記されている。
 旧斉藤家の住宅本体は、現在石川啄木記念館の敷地に移築されている。


(旧斎藤家)住宅 石川啄木記念館敷地内
↑旧斎藤家住宅 石川啄木記念館敷地内

 姫神ホール開館20周年記念事業・映画上映会チラシ(2016.2.11)
↑姫神ホール開館20周年記念事業・映画上映会チラシ(2016.2.11)


17 小野素郷(おのそきょう)句碑の拓本(平成19年 岩手県盛岡市新庄町・盛岡天満宮)


 学問の神様として著名な盛岡天満宮の境内には、芭蕉の句碑や啄木の望郷の歌碑等多数の記念碑が建っている。今回は私の郷里宮古にゆかりをもつ小野素郷の句碑の採拓を紹介する。

小野素郷の句碑
↑小野素郷の句碑

小野素郷句碑の案内板"
↑小野素郷句碑の案内板
小野素郷の句碑の拓本
↑小野素郷の句碑の拓本

【碑文・拓本の内容】
  思無邪

  梅開柳青
    免ハ夢も那し
             松濤

【碑文・拓本の解説】
 梅開き 柳青めば 夢もなし

 句意はいろいろな解釈があると思われるが、冒頭の「思無邪(しむじゃ)」は「思いの中に邪念はない」という意味であるから、次のように解釈するといいのではないだろうか。
 「梅の花も開き、柳の芽も出て新緑となれば(即ち春が来たならば)、他に何の夢(望み)があるだろうか(これ以上何も望むものはない)」。
 末行の「松濤(しょうとう)」は小野素郷の別号。

 碑は、素郷(そきょう)の子・通久(みちひさ)が門人らとはかって、素郷の27回忌に当る弘化3年4月29日に建立された。
 岩手の歴史家・新渡戸仙岳(にとべ せんがく)は、石川啄木が発行した文芸雑誌「小天地」の中で、「小野素郷は我が盛岡における俳壇の偉人たりしのみにあらず、実に日本の俳壇に於いてはその姓名を没すべからず傑出の俳人なり」と論じている。

 小野素郷は江戸時代中期に活躍した盛岡出身の俳人で、晩年には、文事にも造詣が深い盛岡藩第11代藩主・南部利敬(なんぶ としたか)公から厚遇された。
 利敬公が文化7年(1810年)、城下の津志田(つしだ)に大国(だいこく)神社を建立した際には、小野素郷を社家(しゃけ・神職)として迎えた。利敬公をはじめ多くの文人が小野素郷を訪ねて津志田に集まったといい、盛岡の文芸の中心となったのではないかとも考えられている。
 大国神社には数百本の桃の木が植えられ、また同じく利敬公により文化10年、大国神社より街道沿いに南へ2〜3kmほど離れた見前(みるまえ)の地に恵比寿(えびす)神社(※1)を建立した際には街道の両側に沿って多くの梅の木が植樹されたというから、小野素郷の晩年は花に囲まれて過ごしたのではないかと考えられる。
 小野素郷と南部利敬公は親子ほど歳は離れているが(33歳ほど素郷が年上)、文政3年(1820年)奇しくも同じ年に二人は亡くなっている。

 余談になるが、後の第13代藩主・南部利済(としただ)の代になって津志田には遊郭が築かれた。明治期の歴史家・新渡戸仙岳は、中国の桃源郷「武陵桃源」に対し津志田を「杜陵桃源(とりょう とうげん)」と称している。

(※1)現、盛岡市東見前第1地割16(国道4号沿い)にある今宮神社。祭神は蛭子之命(えびすのみこと)。創建当時の恵比寿神社は、明治3年官命により盛岡天満宮の境内へ移された後、明治35年盛岡天満宮の飛地である現在の場所へ移されたとのことで、創建当時の場所は現在地とは異なっている。

 小野素郷については、前述の(3鴨塚の碑の拓本)も参照を。


18 石川啄木歌碑の拓本(平成19年 岩手県盛岡市新庄町・盛岡天満宮)


 盛岡天満宮の境内の本殿前に一対の狛犬が鎮座しているが、その台座に啄木の歌が一首ずつ銅板に鋳造してはめ込んである。銅板の採拓は初めての経験で、墨が濃く出て不満の残る出来あいであった。

盛岡天満宮境内
↑盛岡天満宮境内

盛岡天満宮 狛犬 左 石川啄木の歌碑
盛岡天満宮 狛犬 右 石川啄木の歌碑
↑左右それぞれの狛犬の台座に石川啄木の歌がはめ込まれている。


左側は口を閉じた「吽形(うんぎょう)」の狛犬
右側は口を開いた「阿形(あぎょう)」 の狛犬
↑左側は口を閉じた「吽形(うんぎょう)」 、右側は口を開いた「阿形(あぎょう)」。人の顔にも見えて、どこか愛嬌がある。

石川啄木の歌碑の拓本。左側の狛犬台座
↑左側の狛犬台座にある石川啄木歌碑の拓本
石川啄木の歌碑の拓本。右側の狛犬台座
↑右側の狛犬台座にある石川啄木歌碑の拓本

【碑文・拓本の内容】
 右側
  夏木立中の社の石馬も
  汗する日なり
  君をゆめみむ
            啄木

 左側
  松の風夜晝ひびきぬ
  人訪はぬ山の祠の
  石馬の耳に
            啄木

【碑文・拓本の解説】

 夏木立(なつこだち) 中の社(やしろ)の石馬(いしうま)も 汗する日なり 君をゆめみむ

 「夏木立」は夏の季語で、「夏の生い茂った木立」をさす。「中の社」は、夏木立に囲まれた中にある盛岡天満宮の社。啄木はそこの狛犬を「石馬(いしうま)」と呼んでいたようで、当時は地面にじかに据えられ、子供達が背に乗って遊んでいるのを馬にみたてたのであろう。
 石馬も汗すると思えるほど暑い夏の一日だったと想像される。「君をゆめみむ(ん)」は、君を夢みるだろう、あるいは、君を夢にみたい。この「君」は、その年に結婚した節子のことと思われる。
 この歌は、文芸雑誌『小天地(明治38年9月号)』に発表された「公孫樹」と題する十首のうちの一首で、その年19歳の啄木は5月に節子と結婚している。

 この狛犬は、上小路に住む、高畑源次郎が病平癒祈願成就のお礼として、自作して奉納したと言われており、当時は地面にじかに据えられていた。それを昭和8年、啄木の歌を刻んだ銅板をはめた台石にのせ、若き啄木がこの地に散策し詩情をあたためた往時を偲べるようにしたものだ。
 昭和8年7月23日、盛岡中学創立五十周年を記念して天満宮わきに「病のごと 思郷のこころ湧く日なり 目にあをぞらの煙かなしも」の啄木歌碑が建立されたが、それと同じ日にこの碑も除幕されている。


 松の風夜晝(よひる)ひびきぬ 人訪(と)はぬ山の祠(ほこら)の 石馬(いしうま)の耳に

 「晝」は「昼」の旧字体。人もあまり訪れない(小高い)山にある(盛岡天満宮の)祠の石馬の耳に、松の風は夜も昼も響いているにちがいない。
 この歌は、明治41年11月3日付の岩手日報に発表された作品で、歌集「一握の砂」にも収録されている。この頃啄木は東京で貧困生活にあえいでいた時期であり、よく散策した故郷の盛岡天満宮を想い出しながら歌ったものと思われる。


狛犬の脇にあった旧案内板
↑狛犬の脇にあった旧案内板

現在、狛犬の脇にある新しい案内板
↑現在、狛犬の脇にある新しい案内板

石川啄木については、前述の解説も参照を。


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