ふるさとを拓本

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19 漱盥(すすぎだらい)の拓本(平成19年 岩手県盛岡市下小路・盛岡市中央公民館)


 盛岡市中央公民館から岩手拓本研究会に依頼があり、中央公民館内にある旧南部家別邸庭園の「漱盥(すすぎだらい)」を採拓。後日、軸装して納入された。
 石は300年を超える歴史を経て風化し、肉眼では判読できない文字を拓本は読める状態にしてくれる。拓本の本領を知る瞬間であった。

旧南部家別邸庭園の「漱盥」全景
↑旧南部家別邸庭園の「漱盥」全景
旧南部家別邸庭園の「漱盥」近景
↑旧南部家別邸庭園の「漱盥」近景
旧南部家別邸庭園の「漱盥」の拓本
↑盛岡市中央公民館内にある、旧南部家別邸庭園の「漱盥」の拓本

【碑文・拓本の内容および解説】
盛岡市中央公民館解説文より引用
『別館北東隅の漱盥銘文』
旧南部家別邸庭園の「漱盥」の内容・解説
※貞享丙寅年は貞享三年(1686年)で、盛岡藩四代藩主重信時代(1664〜1691年)の造営された「御薬園」時代の記年名を持つ唯一の遺物である。
※梵字のカは「地蔵菩薩」を表す。


旧南部家別邸庭園「漱盥」拓本の軸装
↑旧南部家別邸庭園「漱盥」拓本の軸装


【盛岡市中央公民館の概要】
 盛岡市中央公民館には旧南部家別邸庭園、国の重要文化財の旧中村家、山口青邨の句碑などがあり、春は桜、秋は紅葉と市民に親しまれている。

・旧南部家別邸庭園の由来
 この場所は、江戸前期に盛岡城で使用する薬草を栽培していたため、「御薬園(おやくえん)」と呼ばれていた。その後、御薬園は廃止され、御殿・御茶屋・能舞台等が造営され、奇岩・珍木を集めた大規模な庭園が造られた。
 裏山の愛宕山には京都高雄の楓を植え、山腹には毘沙門、山王、観音堂を祀り、「下小路御屋敷」の名で代々藩公の別荘、遊歩の地としていた。
 江戸後期には、藩学校「明義堂」の講義所を設置し、藩士の指定に経学・医学などを講義する教育の場にもなった。
 明治維新の改革によって、これらの建物・庭園は取り壊され、現在の木造の建物と庭園は、南部伯爵家別邸として明治41年に新築・造園されたものである。
 昭和30年以降、別邸は盛岡市の公民館施設として使用されてきたが、昭和55年、隣接する中央公民館を新築する際、一部をとりこわし、公民館別館として改築され、現在に至っている。

旧南部家別邸の桜
↑旧南部家別邸の桜

旧南部家別邸庭園の紅葉
↑旧南部家別邸庭園の紅葉

・重要文化財 旧中村家住宅
 中村家は、18世紀中ごろから続いた呉服商で屋号「糸冶」または「糸屋」と呼ばれ、盛岡で屈指の豪商だった。
 この建物は藩政末期に建てられたもので東北地方では数少ない現存する町屋だ。構造意匠とも、この時代の特色がよくみられ、以前は下南大通二丁目(藩政時代の穀町総門付近)に所在していたが、昭和49年3月現在地に移転復原したものである。
 また、建物とこれに関連した資料は昭和46年、現当主中村七三氏から盛岡市に寄贈された。
 建物(主屋・土蔵2棟)は、昭和46年12月28日付国の重要文化財に指定されている。
 規模:建物総面積 430.11u
重要文化財 旧中村家住宅
↑国指定重要文化財 旧中村家住宅

20 山口青邨(せいそん)句碑の拓本(岩手県盛岡市愛宕町・盛岡市中央公民館)


 盛岡市中央公民館主催の「公民館まつり」では、各サークルの1年間の作品が展示され、歌や踊りなども賑やかに披露される。
 そんな一日の合間をぬって拓本サークルのKさんと園内にある山口青邨の句碑を採拓した。空間の墨の打ち方にそれぞれの好みが反映されていた。

盛岡市中央公民館・山口青邨の句碑
↑盛岡市中央公民館・山口青邨の句碑
盛岡市中央公民館・山口青邨句碑の解説板
↑盛岡市中央公民館・山口青邨句碑の解説板
盛岡市中央公民館・山口青邨句碑 Kさんの拓本
↑盛岡市中央公民館・山口青邨句碑 Kさんの拓本
盛岡市中央公民館・山口青邨句碑 自分の拓本
↑盛岡市中央公民館・山口青邨句碑 自分の拓本

【碑文・拓本の内容】
 遠山の
 くつがえる
     さま
 郭公鳴く
       青邨

【碑文・拓本の解説】
 「遠山(とおやま)」は、青邨(せいそん)実家の門前から眺めた南昌山(なんしょうざん)を指している。
 「くつがえるさま」はひっくりかえる様子であるから、水面に映った南昌山の姿を指しているのではないだろうか。南昌山の見える辺りは、現在でも田園地帯が多い。おそらく、5月の頃、水を張った田んぼに、南昌山の姿が逆さに映っていたのであろう。
 そして夏鳥である「郭公(カッコウ)」が盛岡で初鳴きをするのも、ちょうど5月のその頃である。

【解説板の内容】
 俳人山口青邨は明治25年(1892)盛岡市に生まれ、幼少の頃この公民館の隣接地に住んでおられた。
 大正11年(1922)高濱虚子(たかはま きょし)に師事され、清純高雅な作風をもってたちまち俳壇を風靡(ふうび)し、昭和4年(1929)ホトトギス同人となる。また、昭和5年(1930)盛岡より俳誌「夏草」が創刊されるや、これを主宰し、多くの俳人を育てられた。
 この郭公(かっこう)の句は、昭和32年(1957)、青邨が郷里に帰られたとき、家の門前から遠く南昌山を眺めて読んだものである。句碑は昭和53年(1978)岩手夏草会によって建立された。
 なお青邨は、昭和63年(1988)に亡くなられ、その幼少時代を過した旧居(愛宕亭・あたごてい)は、現在この庭園内に移転保存されてある。

山口青邨については前述ページも参照。


21 鋳造壁掛け「浄土ヶ浜」の拓本


 リサイクルショップで購入した鋳造壁掛け「浄土ヶ浜」の拓本を採拓し自宅での練習材料とした。パソコンの中で色付けも行なってみた。
 浄土ヶ浜は昭和30年に「陸中海岸国立公園」として指定されたが、平成23年の東日本大震災後、「復興国立公園」と名称を替えている。
 半世紀前の子供時代は浄土ヶ浜の小さな入り江「クリスパハマ」が遊びの基地であったが、現在は観光船の乗り場になっている。
 平成8年には宮澤賢治の歌碑が建立されている。今回は、浄土ヶ浜に関する詩歌も併せて紹介したい。

浄土ヶ浜 壁掛けの拓本
↑浄土ヶ浜 壁掛けの拓本
浄土ヶ浜 壁掛けの拓本(パソコンにて着色)
↑浄土ヶ浜 壁掛けの拓本(パソコンにて着色)

浄土ヶ浜(平成20年撮影)
↑浄土ヶ浜(平成20年撮影)

浄土ヶ浜周辺を巡る観光船(平成20年撮影)
↑浄土ヶ浜周辺を巡る観光船(平成20年撮影)

【浄土ヶ浜に関する詩歌の紹介】
 宮澤賢治の歌碑に加え、宮古市出身の詩人・荒川法勝氏と沢内村出身の詩人・高橋繁氏の詩を紹介し、平成23年東日本大震災のことを忘却しないようにしたいと思う。合掌。

・浄土ヶ浜にある「宮澤賢治」の歌碑
 1917年(大正6年)7月、宮澤賢治(21歳)は、花巻町有志による「東海岸視察団」に加わり、三陸方面を視察している。26日は釜石、大槌、山田を経て宮古に宿泊。この短歌は、その時読まれたものだ。

浄土ヶ浜にある「宮澤賢治」の歌碑のアップ
↑「宮澤賢治」の歌碑のアップ
浄土ヶ浜にある「宮澤賢治」の歌碑
↑浄土ヶ浜にある「宮澤賢治」の歌碑

浄土ヶ浜にある「宮澤賢治」の歌碑の銘板
↑宮澤賢治歌碑に埋め込まれた銘板

 うるはしの
 海のビロード 昆布らは
 寂光のはまに 敷かれひかりぬ
               宮澤賢治

 (麗しい 海のビロードのような 昆布らは 寂光(じゃっこう)の浜に 敷かれて光っている)
 寂光とは浄土にふりそそぐ 安らかで静かな光。智慧が照らす光。


・浄土ヶ浜にて(荒川法勝作・1976年「海」より)
 声あの声は
 白い定期船が
 静かに入り江の波を分けながら
 船着場にやって来る
 まるで太古の世界に入ってくるかのように

 白い島かげは
 いま真夏の光彩のなかに溶け
 遥か水平線の彼方に連なる
 碧青の海は
 遠い日の少年の夢を呼びもどす

 ぼくはあの朝の浜に立ったように
 鮮やかな感動をもって
 白い美しい扁平な石を拾い
 海のうえに石を切る
 その白い石の躍動の音に
 ぼくは久しく思い憧れていた
 太古の声をきくのだ


・浄土ヶ浜にて(高橋繁作・平成26年9月於:岩手古文書学会研修旅行)
 水平線が
 明るくなってくる
 雲が桃色に染まり
 海面に溶けている

 新たな風と
 波音なのに
 どこからともなく
 頼りない 悲しみが
 染み出てくる

 津波と共に消えた人
 海浜に 命を預けた人々に
 何も出来なかった
 私がいる

 何も出来ない 悲しみが
 波間に 漂い
 浮沈をくり返す

 頼りない祈り と知りながら
 祈る
 祈ることしか できないから

 波は
 平然と
 寄せて 砕けて
 去っていく


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