26 三沢鉄山石碑の拓本(岩手県下閉伊郡田野畑村沼袋)
藩政時代たたら製鉄が行われた盛岡藩 野田通 田野畑村沼袋の三沢鉄山の石碑を紹介する。
年号は享保九年(1724)とほぼ300年前の石碑で、たたら製鉄初期の石碑と推察される。
この石碑以外に当時の面影を残すものは特に無いが、山から流れてくる小川には水車が今でも稼働しており、懐かしい風景が広がっている。
水車の主人の話によると戦時中、鉄や油が不足したため、たたら製鉄の残滓(ざんさい)をトラックで運んで行ったそうで、松の根から油を取った松根油のことなど貴重な話も主人から聞くことができた。
田野畑村には、たたら製鉄遺跡確認のため何度か訪問し、知り合いも増え、地区の行事に参加し その感激を新聞へ投稿したり、たたら製鉄に関する講演を頼まれたりと、深い付き合いをするようになった。
田野畑村は宮沢賢治・西塔幸子・吉村昭・津島節子・三好達治など数々の文学碑が所在し、拓本愛好家にとっては魅力ある村のひとつである。
また、近年では映画「山懐に抱かれて」が田野畑村山地酪農24年の記録として上映され話題になっている。
↑三沢鉄山石碑
↑三沢鉄山石碑近くの農家の水車
↑三沢鉄山石碑の採拓作業
【碑文・拓本の内容】
↑出来上がった三沢鉄山石碑の拓本
↑三沢鉄山 石碑拓本の内容
【碑文・拓本の解説】
梵字「ア」
石碑の中央の石頭に梵字の一文字が刻字されている。この梵字は「ア」を表す文字で、雄山閣「梵字辞典」によると、胎蔵界大日如来、宝幢(ほうとう)如来、日光菩薩、日天、水天などを表している。
南無阿弥陀仏(なむあみだぶ)
浄土宗、浄土真宗、天台宗などの普遍的な経典。
サンスクリット語(古代インド語)で「ナモ アミタ アーバ」の音写と考えられ、「ナモ」は「礼拝する」「敬意を表す」「帰依する」、「アミタ」は「計りしれない」「無量の」、「アーバ」は「光」という意味。即ち、「無尽蔵の光を放つものに帰依します」ということで、阿弥陀仏とは光の塊ということになる。
ちなみに、インドで「こんにちは」などの挨拶に使われる「ナマステ」は、ナモの変化形「ナマス」に、あなたを意味する「テ」を付けたもの。
有縁無縁三界萬霊
すべての人たちに恩恵が及ぶように願われている。
享保九年甲辰七月吉日
享保九年は西暦では1724年でほぼ300年前にあたる。
早野家文書の「萬帳」(岩泉町立図書館)によると身沢(三沢)鉄山の操業開始年は正徳三年(1713年)になっており、この石碑は操業してから11年経過してからの建立となる。その間この地であの世に旅立った人々の供養をされた石碑と推定される。
三沢鉄山
石碑に向かって右に「三沢」、左に「鉄山」と刻字され「三沢鉄山」を表している。
盛岡藩の三閉伊(さんへい)通り(※)に於けるたたら製鉄の初見は、田野畑村沼袋の仙丈(千丈)鉄山で宝永元年(1704年)操業開始。二番手がこの三沢鉄山で10年遅れて正徳三年(1713年)の操業開始となっている。
※野田通り・宮古通り・大槌通りの三つを称して三閉伊通りと言う。
三沢鉄山の所在地
↑たたら遺跡の踏査図
↑盛岡藩のたたら操業をした通り図