ふるさとを拓本

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25 踊躍供養塔(ゆやく くようとう)の拓本(普代村・割沢鉄山跡)


 北上山地では江戸時代盛んと「たたら製鉄」が行われており、その遺跡は300余りとも言われている。その中でも北三陸の普代村萩牛(ふだいむら はぎゅう)地区にあった「割沢鉄山(わりさわてつざん)」は代表的な鉄山であり、「踊躍供養塔」はその鉄山に関係する石碑である。

 割沢鉄山には特別の思いがあり、平成19年に「下閉伊グリーンロード」建設に関連する発掘調査で割沢鉄山の一部が発掘され、(財)岩手県文化財振興事業団「埋蔵文化財センター」の現地説明会に、割沢鉄山の技術者の御子孫である早野貫一さんと共に参加し、さらに研究発表会にも参加することができ大変感激した想い出がある。
 それらのスナップ写真や三陸ジオパークの拠点などを含めて紹介する。割沢鉄山発掘成果の詳細については「割沢遺跡発掘調査報告書」(岩手県立図書館所蔵)を御覧いただきたい。

割沢鉄山の「踊躍供養塔」
↑割沢鉄山「踊躍供養塔」


割沢鉄山の「踊躍供養塔」採拓風景
↑「踊躍供養塔」採拓風景
割沢鉄山の「踊躍供養塔」。タンポで墨打ち作業
↑タンポで墨打ち作業
出来上がった「踊躍供養塔」の拓本
↑出来上がった「踊躍供養塔」の拓本

【碑文・拓本の内容】
  踊躍供養塔 (ゆやくくようとう。養の字は異体字)

【碑文・拓本の解説】
※書籍「普代の石碑」(普代村発行)より引用
 この塔は遊芸人の一行を割沢鉄山に呼んで労務者の慰安を図ったのを記念して建立したものであるという説もあります。

 また、仏教において「斯(こ)の光に遭う者は三垢消滅し身意柔軟なり。歓喜踊躍して善心生ず」ということがあります。念仏となえているうちに心のなかに歓喜は極限に達し、すべてを忘れて踊り出す、それがやがて集団的な踊りとなっていくのです。つまり、踊念佛塔、踊躍念佛塔と同種であると称す見方もあります。

 しかし、石碑の中(下方)に太夫という文字が彫ってあることから、芸能に関係あるものと解したいのです。よって前説をとるのが正しいかと思います。この塔は大変珍しく貴重な存在です。塔には次のような文字が見られます。

 踊躍供養塔
    割沢御鉄山

 太 夫  佐兵衛 万介
      巳之七 三太
 世話人  七太郎 寅松
      定吉  力松
      市松  岩松
      石之介 十右衛門
      コ藏  千太
      佐〇太

 割沢鉄山は、享保2年(1717年)から経営されました。その後百年おいて文化13年(1815年)から8年間、中村半兵衛が支配人経営にあたりました。文政2年(1819年)4月に半兵衛は、経営権安定の嘆願書を提出し認められています。
 <以上が引用文>

※人名等は、「踊躍供養塔」と彫られた面の下方に刻まれている。
 また石碑の測面に鉄山名と年号が刻まれており、採拓したが風化が進んで不鮮明だった(下写真)。
  右側―「割沢御鉄山〇〇〇〇」
  左側―「文政二巳卯七月廿六日〇〇〇〇」

 しかし、刻まれた年号から、経営権安定の嘆願書が認められた3ヵ月後にこの塔が建立されたことが分かる。この塔には労務者の慰安や供養と共に、経営安定の喜びや感謝の気持ちが込められているのではないだろうか。
踊躍供養塔の側面の拓本
↑踊躍供養塔の側面の拓本。風化が進んで読み取りにくい。

割沢鉄山(わりさわ てつざん)遺跡

 平成19年に下閉伊グリーンロード建設に関連して発掘調査が行なわれ、割沢鉄山の一部が発掘された。岩手県文化財振興事業団「埋蔵文化財センター」により開催された現地説明会の様子などを紹介する。

岩泉町周辺の主な鉄山(野田通の鉄山)
↑岩泉町周辺の主な鉄山(野田通の鉄山)

割沢鉄山遺跡の現地説明会、主催者あいさつ
↑割沢鉄山遺跡の現地説明会、主催者あいさつ

割沢鉄山遺跡・現地説明会の状況
↑割沢鉄山遺跡・現地説明会の状況

大鍛冶炉
↑大鍛冶炉

大鍛冶炉の上屋
↑大鍛冶炉の上屋

排滓場(はいさいば)から出土した鉄製品
↑排滓場(はいさいば)から出土した鉄製品

出土した陶磁器
↑出土した陶磁器

割沢遺跡全景
↑割沢遺跡全景


【早野家文書「萬帳」】
 たたら研究の上で全国的にも貴重な文献である早野家文書「萬帳」は、割沢鉄山の技術者の御子孫である早野貫一氏が所蔵する。
 割沢鉄山遺跡の現地説明会には、その早野貫一氏と共に参加し、記念写真も撮影した。
早野家文書「萬帳」
↑早野家文書「萬帳」

左・採拓者本人(菊池正則) 右・早野貫一氏
↑左・採拓者本人(菊池正則) 右・早野貫一氏

【三陸ジオパークのジオサイト16番として登録されている】 三陸ジオパークの解説板
↑三陸ジオパークの解説板

【鉄山染め】
 普代村の萩牛地区には、かって盛岡藩直営の割沢鉄山がありました。鉄山で働く人夫たちは、沢水を利用した風呂で一日の疲れを落としていました。
 風呂で使う手ぬぐいは独特の色に染まりました。これが、虫除けにも効果があるとして、鉄反応による独特の鈍い色味とともに珍重されたといいます。
 この染めを現代に復活させたのが「鉄山染」です。鉄山の沢に湧き出る褐色の水で草木染めを媒染しております。
 独特の深みのある渋い色合いは、老若男女を問わず着用できます。和装、洋装も問いません。普代村萩牛地区の工房で、一枚一枚手作業で染めています。

鉄山染め
鉄山染め
鉄山染め



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