ふるさとを拓本

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11 金田一国士 頌(きんだいち くにお しょう)の拓本(平成18年岩手県花巻市花巻温泉)


 花巻温泉の中にあって、古風な佇まいの松雲閣の向かい、釜渕の滝に通じる遊歩道の入り口付近に建立されている。
 ※頌(しょう) とは、ほめたたえる言葉や詩文のこと。
金田一国士頌
↑金田一国士 頌
金田一国士 頌 の拓本
↑金田一国士 頌 の拓本
金田一国士 頌 の説明板
↑金田一国士 頌 の説明板
金田一国士 の説明板
↑金田一国士 の説明板

【碑文・拓本の内容】
 上記説明板参照。

【碑文・拓本の解説】
 金田一 国士(きんだいち くにお)の功績をたたえ、高村光太郎が作詞、郷土史家の太田孝太郎が書し、昭和22年10月10日に建立された。

 金田一国士(きんだいち くにお)
 1883(明治16).7.7〜1940(昭和15).2.11 青森県三戸町出身 実業家
 旧姓は矢幅二郎。明治37年、金田一勝定の養子となりリウと結婚。
 大正2年1月、名前を国士と改める。この年4月、盛岡市会議員。同年10月、盛岡電灯支配人。8年3月、盛岡銀行常務取締役。9年7月、盛岡電灯副社長。10年1月、盛岡銀行頭取に就任。同月、盛岡電灯、岩手軽便鉄道社長に就任。同年10月、三陸水産冷蔵社長。11年6月、九戸水力電気社長。14年3月、盛岡信託社長。その後、盛岡信託会社、盛岡貯蓄銀行、花巻温泉、花巻電鉄などのあらゆる産業に参画し実をあげた。
 昭和6年11月の銀行パニックで退く。墓は横浜市鶴見区の総持寺。(『岩手人名辞典』より)

 高村光太郎(たかむら こうたろう)
 1883(明治16).3.13〜1956(昭和31).4.2  東京都出身 詩人・彫刻家
 父は光雲。明治35年、東京美術学校(現東京芸術大学)彫刻家卒業。
 宮澤賢治の実家を頼り、昭和20年5月、花巻に疎開し太田村山口の山小屋に住んで7年間、独居生活をした。この間、連作詩『暗愚小伝』(22年7月)や詩集『典型』(25年11月)などを書き、亡き妻千恵子を偲び戦争中の自己の不明を反省した日々を送った。27年、青森県の委嘱で「裸婦像」を造るため帰京、翌年完成し10月、十和田湖畔に設置される。
 昭和41年10月17日、高村山荘に高村記念館が建てられた。毎年4月2日には詩碑前で連翹忌(れんぎょうき)、5月15日には高村祭がおこなわれている。墓は東京都豊島区の染井霊園。(『岩手人名辞典』より)

 太田孝太郎(おおた こうたろう)
 1881(明治14).7.15〜1967(昭和42).1.18 盛岡市出身 郷土史家
 太田小二郎の長男。号・夢庵。盛岡中学(現盛岡一高)をへて明治39年、早稲田大学政経部を卒業し横浜正金銀行に入る。大正15年、岩手日報社長。昭和7年、盛岡銀行頭取。県文化財専門委員など歴任。
 古代支那印譜学の専門家。著書『夢庵蔵印』『楓園集古印譜正続集』『古銅印譜挙陽』『好晴楼蔵玉印』。
 郷土史研究にも金石学で多大な貢献をした。著書『岩手県金石史』『盛岡市碑文集』。
 昭和25年、岩手日報文化賞受賞。35年、河北新報社文化賞を受賞し、文部省から文化財功労者表彰も受ける。盛岡市先人記念館に顕彰されている。墓は盛岡市の久昌寺。(『岩手人名辞典』より)


12 箱峯山記念碑(登山記念碑)の拓本(平成18年岩手県盛岡市)


 公民館まつりで知り合った知人から町起こしの一助に活用したいと依頼され採拓した。
 「箱ケ森」の東方、上飯岡(かみいいおか)コースの登山口、稲荷街道から少し入った横河電子機器の会社敷地内に建っている。
 古くから信仰の山として、繋(つなぎ)温泉コースや、上飯岡コースがあったが、現在は盛岡市太田猪去(いざり)の猪去川からたどるコースが開かれ、道標などが整備されている。

箱峯山記念碑
↑箱峯山記念碑(登山記念碑)
箱峯山記念碑 の拓本
↑箱峯山記念碑 の拓本

【碑文・拓本の内容】
 文久三 癸亥年
 箱峯山
 四月八日 當村講中

【碑文・拓本の解説】
 文久三(1863)年 癸亥(みずのと い) 四月八日に箱峰山登山(参拝)した記念に建てられたものと考えられる。
 當(当)村とは地元の飯岡(いいおか)村を指す。「講」とは信仰を中心とした集まりのことで、箱峰山が信仰の対象となっていたことがうかがえる。
 文久三年は江戸時代末期で、長州藩が下関で外国艦隊に砲撃を行ったり、薩英戦争が起こった年である。

 また、箱峯山(はこみねやま)は、現在は「箱ケ森(はこがもり)」と呼ばれる山で標高865m。盛岡市の南西部に位置し、ここから南へ「赤林山(あかばやしやま)855m」「毒ケ森(どくがもり)782m」「南昌山(なんしょうざん)847.5m」「東根山(あずまねさん)927.9m」と続く東根山地を形成している。
盛岡市乙部の花月堂付近から見た東根山地
 盛岡市乙部(おとべ)の花月堂付近から見た東根(あずまね)山地(「岩手の地学第39号」より)
宮澤賢治の東根山地のスケッチトレース図
  宮澤賢治の東根山地のスケッチトレース図(「岩手の地学第39号」より)

【宮澤賢治と東根(あずまね)山地】
 岩手花巻出身の宮澤賢治は童話作家として知られているが、一方では優れた地質学者という顔を持っている。
 盛岡中学時代には「石っこ賢さん」とあだ名されるほど岩石や化石に興味を示しており、現・岩手大学農学部の前身である「盛岡高等農林学校」には首席で合格し、そこで地質学を本格的に学び、卒業まで特待生だったというほど研究熱心であった。この頃にはハンマー片手に盛岡や稗貫郡の地質調査を精力的に行い、この地域の地質土性図を仲間と共に作ったが、実際はほとんど賢治一人の手で作り上げたようなものだといわれている。
 また、賢治の詩や童話には地質学に関する用語や知識がよく用いられており、そういう知識を持って賢治の作品に接すると、また新たな一面に触れることができるだろう。
 そんな賢治は、東根山地にも「岩頸(がんけい)」という点で非常に関心を示している。岩頸とは、火山の火道の中で太い棒状に冷えて固まったマグマが、長い年月をかけて周りの山体が風化して削られた結果、その頸(くび)だけをのぞかせて一つの山のピークを形成したもの。
 東根山地の箱ケ森、毒ヶ森、赤林山、南昌山、東根山が岩頸にあたるということを宮澤賢治は「岩頸列(がんけいれつ)」という詩の中で示している。

 「 岩頸列 」 宮澤賢治
 西は箱ケと毒ケ森、椀コ、南昌、東根の、
  *椀コ:下記参照
 古き岩頸(ネック)の一列に、氷霧あえかのまひるかな。
  *あえか:かよわくなよなよしい様子
 からく みやこにたどりける、芝雀は旅をものがたり、
 「その小屋掛けのうしろには、寒げなる山にょきにょきと立ちし」
 とばかり口つぐみ、とみにわらふにまぎらして、
  *とみに:急に
 渋茶をしげにのみしてふ、そのことまことうべなれや。
  *しげにのみしてふ:なんども飲み続け
  *うべなれや:もっともだなあ
 山よほのぼのひらめきて、わびしき雲をふりはらへ、
 その雪尾根をかヾやかし、野面のうれひを燃し了(おほ)せ。

*上記「岩頸列」詩中の「椀コ」についての考察
 「椀コ」は、岩頸という点から考えると「赤林山」と考えるのが妥当だと思われるが、賢治研究家の間では「椀コ」が独立した山なのかどうかを含めて諸説がある。
 その諸説を松本隆氏の著作「童話『銀河鉄道の夜』の舞台は矢巾・南昌山」の中から数点を照会しよう。

1 奥田博氏は『宮沢賢治の山旅―イーハトーブの山を訪ねて』の中で「大石山」説。
2 細田嘉吉氏は『宮沢賢治記念館通信第67号』の中で「木津ケ森」(薬師岳766m)説。
3 宮城一男氏は『宮沢賢治地学と文学のはざま』の中で、「独立した山でなく、南昌山を「椀コ」のような山と、愛称として、詠った」という説。
4 大石雅之氏は『岩手の地学』(第39号2009年6月号)の中で「赤林山」説。
5 松本隆氏は「童話『銀河鉄道の夜』の舞台は矢巾・南昌山」の中で「賢治は、自分が心から愛した南昌山を、親しみを込めて『椀コ』のように整った美しい山と、形容したのではないか」としている。

湯沢団地から見た赤林山
 湯沢団地から見た赤林山。まさに「お椀」を伏せたような山容である。

*宮澤賢治の地質学者としての一面については下記書物が詳しい
「宮澤賢治の地的世界」 加藤碵一(かとう ひろかず)著


13 高濱虚子句碑の拓本(平成18年岩手県花巻市花巻温泉)


 花巻温泉には高濱虚子の句碑が二つある。ひとつは佳松園(かしょうえん)前にあり、もうひとつは堂ケ沢山の中腹にあるが、堂ケ沢山の中腹の句碑は現在(平成28年10月)熊の危険などもあり立ち入り禁止になっている。
 高濱虚子は昭和2年と同8年の2回花巻温泉を訪れている。
 この二つの句碑は昭和9年に建てられたもので、当時は「全国最初の子規派句碑花巻温泉に建つ」のタイトルで「花巻温泉ニュース」(第54号)に掲載された。
 昭和9年5月13日の虚子先生句碑の除幕式には、高濱虚子の高弟工学博士東京帝大教授の山口青邨(岩手県出身)はじめ宮野小提灯(みやのこちょうちん)等多数が参列している。

【高濱虚子 堂ケ沢山の句碑】
高濱虚子 堂ケ沢山の句碑
↑高濱虚子 堂ケ沢山の句碑
高濱虚子 堂ケ沢山の句碑の拓本
↑高濱虚子 堂ケ沢山の句碑 の拓本

【碑文・拓本の内容】
 春山も こめていでゆの 国造り
               虚子

【碑文・拓本の解説】
 「春山も こめて」の「こめて」は、「込めて」「籠めて」で「物をぎっしり詰める、混雑さす」の意。花巻温泉がにぎわっている様子を表している。
 「いでゆの国造り」は花巻温泉の一大リゾート地の建設を示しているものと考えられる。

 高濱虚子が最初に花巻温泉を訪れた昭和2年(1927)は株式会社花巻温泉が創業された年であり、また「日本新八景」人気投票 温泉部門で、花巻温泉が最高点当選を果たした年でもある。

高濱虚子 堂ケ沢山の句碑 案内板
↑堂ケ沢山句碑の案内板。
(現在立ち入り禁止)


【高濱虚子 佳松園前の句碑】
高濱虚子 佳松園前の句碑
↑高濱虚子 佳松園前の句碑
高濱虚子 佳松園前の句碑 の拓本
↑高濱虚子 佳松園前の句碑 の拓本

【碑文・拓本の内容】
 秋天や 羽山の端山 雲少し
             虚子

【碑文・拓本の解説】
 「羽山」はこの句碑の後ろに見える山。「端山」は連山のはしにある山のこと。雲もわずかで、清々しく晴れ渡った秋空が思い浮かべられる。

 高濱虚子(たかはま きょし)
 1874(明治7)〜1959(昭和34) 俳人・小説家
 本名 清。愛媛県松山市生まれ。二高中退。正岡子規に師事。「ホトトギス」を主宰して花鳥風詠の客観写生を説いた。
 「五百句」「虚子俳話」など。「俳諧師」「風流懴法」など写生文の小説でも知名。文化勲章。(出典:広辞苑)


14 石川啄木歌碑の拓本 (平成19年岩手県盛岡市加賀野・富士見橋)


 盛岡市を流れる中津川は、毎年天然の鮭が遡上し市街地の流れの中で産卵するという全国でも貴重な清流。その中津川の河畔には啄木や宮澤賢治の碑をはじめ文学碑が点在し、遊歩道も整備されていて市民の散歩コースとして親しまれている。
 今回は「上の橋(かみのはし)」上流の「富士見橋」を訪ねて採拓した。

 富士見橋親柱の啄木歌碑
↑富士見橋親柱の啄木歌碑
啄木歌碑 の拓本
↑啄木歌碑 の拓本

富士見橋親柱の啄木歌碑(全景)
↑富士見橋親柱の啄木歌碑(全景)
高欄のケシの花の模様(中津川には白鳥飛来)
↑高欄には啄木がデザインしたケシの花模様(中津川には白鳥も飛来している)

【碑文・拓本の内容】
 岩手山
 秋はふもとの三方の
 野に満つる蟲を何と聴くらむ

             啄木

【碑文・拓本の解説】
 この詩は「一握の砂」に収められている詩で、東京に出た啄木が故郷・岩手を想いながら詠んだものである。
 岩手山(いわてさん)は南部片富士(なんぶかたふじ)とも呼ばれる山で、西側は奥羽の山塊につながっており、残る三方に広がる裾野をもっている。秋にはその野に満ちる蟲(虫)たちの声を岩手山はどのように聴いているのだろうか・・・、というのが詩の意である。
 啄木の望郷の念とともに岩手山に対する親しみや、さらにはスケールの大きな岩手の大自然を感じさせてくれる。

 明治38年新婚1カ月の啄木は富士見橋近くの加賀野に転居し(※)、その家を発行所として文芸誌「小天地」第1号を発行している。
 (※現在「啄木新婚の家」として公開されている所からわずか1ヵ月ほどで加賀野へ転居した)
 富士見橋は昭和56年に建立されているが、橋の高欄には啄木がデザインした「小天地」表紙絵のケシの花模様があしらわれ、親柱には銅板でこの啄木望郷歌がはめ込まれている。

 建立:昭和56年4月20日
 所在地:盛岡市加賀野一丁目

 石川啄木(いしかわ たくぼく)については前述の項参照。


15 横山八幡宮御神歌碑の拓本 (平成19年岩手県宮古市宮町)


 生まれ育った宮古の鎮守の森、俗称八幡様にある歴史ある御神歌碑、宮司様の了解を得て採拓することができた。

 横山八幡宮(宮古市宮町)
↑横山八幡宮(宮古市宮町)

横山八幡宮御神歌碑
↑横山八幡宮御神歌碑
横山八幡宮御神歌碑 拓本の軸装
↑横山八幡宮御神歌碑 拓本の軸装

【碑文・拓本の内容】
 神歌
 山畠に 作り
   あらしの えのこ草
 阿波の鳴門は
   誰かいふらむ

【碑文・拓本の解説】「横山八幡宮由緒略記」より。(一部加筆)
 文化七年(1810)駒井常爾建立

 寛弘三年(1006・平安時代中期)、阿波の鳴門が、突然鳴動し怒濤渦巻く天変地異が起こり、帝は諸国にお布令を出しこれを鎮めようとした。当宮の禰宜(ねぎ・宮司を補佐し祈祷を行う神職)も、これを鎮めようと日夜祈祷をしたところ、一首の和歌を得ることができた。禰宜は早速この和歌を御神歌と感じ、阿波の鳴門に赴いた。
  山畠に 作りあらしの えのこ草
  阿波の鳴門は 誰かいふらむ
歌意:
山の畑に 作り荒らした(手入れがあまりされずに生えた)エノコ草、(粟に似ているが)粟が成るとは誰が言うだろうか

と詠じると、たちまち怒濤はやみ、元の海に戻った。帝は大いに喜び、禰宜を召して八幡宮の様子をお尋ねになった。禰宜は、これに和歌をもってこたえ、
  我が国に 年経し宮の古ければ
  御弊の串の 立つところなし
歌意:
我が国(故郷)にある 年を経た宮は古いので 御幣の串を立てるところもありません

 と神古び(かみさび)た様子を申上げたところ、帝はその歌に御感あって、「宮の古ければ」 の一節をとり、「都(華洛)」と異字同訓の「宮古」という地名を禰宜に賜った。以来、この閉伊(へい)の湊町(みなとまち)を「宮古(みやこ)」と言うようになった(宮古地名の由来)

*横山八幡宮に伝わる源義経(みなもと よしつね) 北行伝説
 正治元年(1199)、源九郎判官義経公(みなもと くろう ほうがん よしつね こう)、平泉を逃れ当宮に参籠。大般若心経(だいはんにゃしんきょう)百巻を奉納した。家臣の鈴木三郎重家は、老齢のためこの地に残り「近内」に住み、当宮の宮守となった。この縁により現在でも、例大祭にはこの地区より神幸祭行列の供奉が慣例になっている。


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