12 箱峯山記念碑(登山記念碑)の拓本(平成18年岩手県盛岡市)
公民館まつりで知り合った知人から町起こしの一助に活用したいと依頼され採拓した。
「箱ケ森」の東方、上飯岡(かみいいおか)コースの登山口、稲荷街道から少し入った横河電子機器の会社敷地内に建っている。
古くから信仰の山として、繋(つなぎ)温泉コースや、上飯岡コースがあったが、現在は盛岡市太田猪去(いざり)の猪去川からたどるコースが開かれ、道標などが整備されている。
↑箱峯山記念碑(登山記念碑)
↑箱峯山記念碑 の拓本
【碑文・拓本の内容】
文久三 癸亥年
箱峯山
四月八日 當村講中
【碑文・拓本の解説】
文久三(1863)年 癸亥(みずのと い) 四月八日に箱峰山登山(参拝)した記念に建てられたものと考えられる。
當(当)村とは地元の飯岡(いいおか)村を指す。「講」とは信仰を中心とした集まりのことで、箱峰山が信仰の対象となっていたことがうかがえる。
文久三年は江戸時代末期で、長州藩が下関で外国艦隊に砲撃を行ったり、薩英戦争が起こった年である。
また、箱峯山(はこみねやま)は、現在は「箱ケ森(はこがもり)」と呼ばれる山で標高865m。盛岡市の南西部に位置し、ここから南へ「赤林山(あかばやしやま)855m」「毒ケ森(どくがもり)782m」「南昌山(なんしょうざん)847.5m」「東根山(あずまねさん)927.9m」と続く東根山地を形成している。
盛岡市乙部(おとべ)の花月堂付近から見た東根(あずまね)山地(「岩手の地学第39号」より)
宮澤賢治の東根山地のスケッチトレース図(「岩手の地学第39号」より)
【宮澤賢治と東根(あずまね)山地】
岩手花巻出身の宮澤賢治は童話作家として知られているが、一方では優れた地質学者という顔を持っている。
盛岡中学時代には「石っこ賢さん」とあだ名されるほど岩石や化石に興味を示しており、現・岩手大学農学部の前身である「盛岡高等農林学校」には首席で合格し、そこで地質学を本格的に学び、卒業まで特待生だったというほど研究熱心であった。この頃にはハンマー片手に盛岡や稗貫郡の地質調査を精力的に行い、この地域の地質土性図を仲間と共に作ったが、実際はほとんど賢治一人の手で作り上げたようなものだといわれている。
また、賢治の詩や童話には地質学に関する用語や知識がよく用いられており、そういう知識を持って賢治の作品に接すると、また新たな一面に触れることができるだろう。
そんな賢治は、東根山地にも「岩頸(がんけい)」という点で非常に関心を示している。岩頸とは、火山の火道の中で太い棒状に冷えて固まったマグマが、長い年月をかけて周りの山体が風化して削られた結果、その頸(くび)だけをのぞかせて一つの山のピークを形成したもの。
東根山地の箱ケ森、毒ヶ森、赤林山、南昌山、東根山が岩頸にあたるということを宮澤賢治は「岩頸列(がんけいれつ)」という詩の中で示している。
「 岩頸列 」 宮澤賢治
西は箱ケと毒ケ森、椀コ、南昌、東根の、
*椀コ:下記参照
古き岩頸(ネック)の一列に、氷霧あえかのまひるかな。
*あえか:かよわくなよなよしい様子
からく みやこにたどりける、芝雀は旅をものがたり、
「その小屋掛けのうしろには、寒げなる山にょきにょきと立ちし」
とばかり口つぐみ、とみにわらふにまぎらして、
*とみに:急に
渋茶をしげにのみしてふ、そのことまことうべなれや。
*しげにのみしてふ:なんども飲み続け
*うべなれや:もっともだなあ
山よほのぼのひらめきて、わびしき雲をふりはらへ、
その雪尾根をかヾやかし、野面のうれひを燃し了(おほ)せ。
*上記「岩頸列」詩中の「椀コ」についての考察
「椀コ」は、岩頸という点から考えると「赤林山」と考えるのが妥当だと思われるが、賢治研究家の間では「椀コ」が独立した山なのかどうかを含めて諸説がある。
その諸説を松本隆氏の著作
「童話『銀河鉄道の夜』の舞台は矢巾・南昌山」の中から数点を照会しよう。
1 奥田博氏は『宮沢賢治の山旅―イーハトーブの山を訪ねて』の中で「大石山」説。
2 細田嘉吉氏は『宮沢賢治記念館通信第67号』の中で「木津ケ森」(薬師岳766m)説。
3 宮城一男氏は『宮沢賢治地学と文学のはざま』の中で、「独立した山でなく、南昌山を「椀コ」のような山と、愛称として、詠った」という説。
4 大石雅之氏は『岩手の地学』(第39号2009年6月号)の中で「赤林山」説。
5 松本隆氏は「童話『銀河鉄道の夜』の舞台は矢巾・南昌山」の中で「賢治は、自分が心から愛した南昌山を、親しみを込めて『椀コ』のように整った美しい山と、形容したのではないか」としている。
湯沢団地から見た赤林山。まさに「お椀」を伏せたような山容である。
*宮澤賢治の地質学者としての一面については下記書物が詳しい
「宮澤賢治の地的世界」
加藤碵一(かとう ひろかず)著
13 高濱虚子句碑の拓本(平成18年岩手県花巻市花巻温泉)
花巻温泉には高濱虚子の句碑が二つある。ひとつは佳松園(かしょうえん)前にあり、もうひとつは堂ケ沢山の中腹にあるが、堂ケ沢山の中腹の句碑は現在(平成28年10月)熊の危険などもあり立ち入り禁止になっている。
高濱虚子は昭和2年と同8年の2回花巻温泉を訪れている。
この二つの句碑は昭和9年に建てられたもので、当時は「全国最初の子規派句碑花巻温泉に建つ」のタイトルで「花巻温泉ニュース」(第54号)に掲載された。
昭和9年5月13日の虚子先生句碑の除幕式には、高濱虚子の高弟工学博士東京帝大教授の山口青邨(岩手県出身)はじめ宮野小提灯(みやのこちょうちん)等多数が参列している。
【高濱虚子 堂ケ沢山の句碑】
↑高濱虚子 堂ケ沢山の句碑
↑高濱虚子 堂ケ沢山の句碑 の拓本
【碑文・拓本の内容】
春山も こめていでゆの 国造り
虚子
【碑文・拓本の解説】
「春山も こめて」の「こめて」は、「込めて」「籠めて」で「物をぎっしり詰める、混雑さす」の意。花巻温泉がにぎわっている様子を表している。
「いでゆの国造り」は花巻温泉の一大リゾート地の建設を示しているものと考えられる。
高濱虚子が最初に花巻温泉を訪れた昭和2年(1927)は株式会社花巻温泉が創業された年であり、また「日本新八景」人気投票 温泉部門で、花巻温泉が最高点当選を果たした年でもある。
↑堂ケ沢山句碑の案内板。
(現在立ち入り禁止)
【高濱虚子 佳松園前の句碑】
↑高濱虚子 佳松園前の句碑
↑高濱虚子 佳松園前の句碑 の拓本
【碑文・拓本の内容】
秋天や 羽山の端山 雲少し
虚子
【碑文・拓本の解説】
「羽山」はこの句碑の後ろに見える山。「端山」は連山のはしにある山のこと。雲もわずかで、清々しく晴れ渡った秋空が思い浮かべられる。
高濱虚子(たかはま きょし)
1874(明治7)〜1959(昭和34) 俳人・小説家
本名 清。愛媛県松山市生まれ。二高中退。正岡子規に師事。「ホトトギス」を主宰して花鳥風詠の客観写生を説いた。
「五百句」「虚子俳話」など。「俳諧師」「風流懴法」など写生文の小説でも知名。文化勲章。(出典:広辞苑)
14 石川啄木歌碑の拓本 (平成19年岩手県盛岡市加賀野・富士見橋)
盛岡市を流れる中津川は、毎年天然の鮭が遡上し市街地の流れの中で産卵するという全国でも貴重な清流。その中津川の河畔には啄木や宮澤賢治の碑をはじめ文学碑が点在し、遊歩道も整備されていて市民の散歩コースとして親しまれている。
今回は「上の橋(かみのはし)」上流の「富士見橋」を訪ねて採拓した。
↑富士見橋親柱の啄木歌碑
↑啄木歌碑 の拓本
↑富士見橋親柱の啄木歌碑(全景)
↑高欄には啄木がデザインしたケシの花模様(中津川には白鳥も飛来している)
【碑文・拓本の内容】
岩手山
秋はふもとの三方の
野に満つる蟲を何と聴くらむ
啄木
【碑文・拓本の解説】
この詩は「一握の砂」に収められている詩で、東京に出た啄木が故郷・岩手を想いながら詠んだものである。
岩手山(いわてさん)は南部片富士(なんぶかたふじ)とも呼ばれる山で、西側は奥羽の山塊につながっており、残る三方に広がる裾野をもっている。秋にはその野に満ちる蟲(虫)たちの声を岩手山はどのように聴いているのだろうか・・・、というのが詩の意である。
啄木の望郷の念とともに岩手山に対する親しみや、さらにはスケールの大きな岩手の大自然を感じさせてくれる。
明治38年新婚1カ月の啄木は富士見橋近くの加賀野に転居し(※)、その家を発行所として文芸誌「小天地」第1号を発行している。
(※現在「啄木新婚の家」として公開されている所からわずか1ヵ月ほどで加賀野へ転居した)
富士見橋は昭和56年に建立されているが、橋の高欄には啄木がデザインした「小天地」表紙絵のケシの花模様があしらわれ、親柱には銅板でこの啄木望郷歌がはめ込まれている。
建立:昭和56年4月20日
所在地:盛岡市加賀野一丁目
石川啄木(いしかわ たくぼく)については前述の項参照。