ふるさとを拓本

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24 新渡戸稲造(にとべ いなぞう)の記念碑の拓本(平成20年 盛岡市・盛岡城跡公園)

 新渡戸稲造の「願わくはわれ 太平洋の橋 とならん」の碑は、盛岡市盛岡城跡公園の二の丸に建立されている。その場所からは盛岡市街地と岩手の秀峰・岩手山を眺めることが出来る。
新渡戸稲造の「願わくはわれ 太平洋の橋 とならん」の碑
↑新渡戸稲造の記念碑(2005年8月23日撮影)


新渡戸稲造の「願わくはわれ 太平洋の橋 とならん」の碑の拓本
↑石碑の現物は横長であったが、拓本はコンパクトに仕上げた。

【碑文・拓本の内容】
  願わくはわれ
  太平洋の橋
  とならん
        新渡戸 稲造

【碑文・拓本の解説】
この言葉に込められた新渡戸稲造の思いは、
「日本には日本の長所があり、西洋には西洋の長所があります。私はお互いの国の長所を伝え合い、世界の国々が仲良くし、ともに向上していくようにと願っています。そのための橋わたしの役をしたいと考えています」というものである。

世界平和につくした国際人 新渡戸稲造の生涯

新渡戸稲造の肖像
 慶長三年(1598)、新渡戸家第三十三代 春治(ときはる)は、 南部氏の招きにより、ここ安野(やすの・花巻新渡戸記念館の所在地)の地に移り住んだ。以後、新渡戸一族は、幕末期の花巻城存続問題や兵法師範として活躍した維民(これたみ・稲造の曽祖父)、十和田三本木原の新田開発と街づくりに尽力した (つとう・稲造の祖父)・十次郎(じゅうじろう・稲造の父)をはじめ、有為な人材を輩出している。
 花巻系新渡戸家本家に生を受けた新渡戸稲造は、国際人として、また教育者として多方面に活動した生涯であった。

【国際人として】
 世界の平和と協力を目的とした、国際連盟の事務次長を勤め、草創期の国連の基盤確立に貢献し、「ジュネーブの星」と称せられた。
 ユネスコの前身である「知的協力委員会」の創設に尽力した。

【教育者として】
 札幌農学校・京都帝国大学・東京帝国大学等で教鞭をとり、第一高等学校長・東京女子大学学長を歴任した。
 万人に等しく学びの場を、との願いのもとに私立「遠友夜学校」を開校し、運営・指導した。

【農政学者として】
 佐藤昌介(しょうすけ・花巻出身・北海道帝国大学初代総長)らと共に、日本初の農学博士の学位を受ける。
 日本統治下にあった台湾の財政的自立のために、技術者・指導者として砂糖きび栽培・製糖業の基礎を築く。

【著述家として】
 代表的な著書「武士道」は、日本文化の伝統の中に人類共通の道徳があることを、世界に紹介したい、と願って著している。
 農学・歴史・法学等の学術専門書から人生訓・講義録等々、多方面に渡っての著書を、英語・日本語で著している。

新渡戸稲造 年表

青雲の志
新渡戸稲造と次兄 新渡戸道郎
明治10年(左側は次兄 新渡戸道郎)
1862年
(文久2年)
満年齢
0歳
8月8日(新暦では9月1日) 南部藩士 新渡戸十次郎の三男として盛岡に生まれる。幼名は稲之助(いなのすけ)。  
1871年
(明治4年)
9歳
 
兄の道郎(みちろう)と上京(11日間の旅程)。叔父の太田時敏(ときとし)の養子となり、太田稲造と改名。  
1872年 10歳 共慣義塾(きょうかんぎじゅく)(旧南部藩校)に学ぶ。
1875年 13歳 東京英語学校(後の大学予備門)に入学。
1877年 15歳 札幌農学校に2期生として入学。
1878年 16歳 洗礼を受け、クリスチャンとなる。
1883年 21歳 東京大学(専科生)に入学。
 
学究に生き
新渡戸稲造とメリー夫人
メリー夫人と
1884年
(明治17年)
22歳
 
私費でアメリカに留学。10月、ジョンズ・ホプキンス大学に転学。  
1885年 23歳 クエーカー教徒の集会に出席し、メリー・エルキントンと知り合う。
1887年 25歳 札幌農学校助教を命じられ、農政学研究のため3年間のドイツ留学。
1889年 27歳 長兄七郎の死去により、太田姓から新渡戸姓に戻る。
1891年 29歳 メリー・エルキントンと結婚し、日本に帰国する。
1892年 30歳 長男遠益(とおます)が生まれるが、一週間で死去する。
1894年 32歳 遠友夜学校(えんゆうやがっこう)を設立。
1899年 37歳 日本最初の農学博士の学位を受ける。
1900年 38歳 アメリカで「武士道」を出版。
 
世界へ雄飛
国際連盟事務次長時代の新渡戸稲造
国際連盟事務次長時代(手前中央)
1901年
(明治34年)
39歳 台湾総督府 民政部 殖産課長となり、製糖産業の基礎を築く。   
1903年 41歳 京都帝国大学 法科大学教授となる。
1906年 44歳 第一高等学校長に就任、東京帝国大学教授と兼任。
1911年 49歳 日米交換教授としてアメリカ各地で百数十回の講演。
1918年 56歳 東京女子大学初代学長となる。
1920年 58歳 国際連盟事務次長に就任(ユネスコの前身である知的協力委員会設立に尽力)。
1926年 64歳 貴族院議員となる。
1929年 67歳 太平洋問題調査会理事長となる。
1933年
(昭和8年)
71歳 第5回太平洋会議(カナダのバンフ)に出席。その後、病気のためヴィクトリア市のジュビリー病院に入院。10月15日 (日本時間16日)死去。  


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