ふるさとを拓本

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22 石川啄木歌碑の拓本(平成19年岩手県盛岡市玉山区渋民・旧石川啄木記念館)


 現在の石川啄木記念館の裏の小高い所に旧記念館跡があり、その庭に「石川啄木慰霊塔」が建立されている。啄木一族の墓は函館の立待岬(たちまちみさき)にあるが、啄木の妹・光子さんの意向を汲んで昭和58年4月13日石川啄木記念館により建立された。
 今回は慰霊塔の裏面にはめ込まれている銅版の歌碑を採拓した。通常、石碑は陰刻(文字が白色 )となりますが、今回は陽刻(文字が黒色)なので力の入れ具合に工夫がいりました。

石川啄木慰霊塔 建立:昭和58年4月13日
↑石川啄木慰霊塔 建立:昭和58年4月13日


(慰霊塔裏面)石川啄木の歌碑
↑(慰霊塔裏面)石川啄木の歌碑

石川啄木の歌碑の拓本
↑石川啄木の歌碑の拓本

【碑文・拓本の内容】
 今日もまた胸に痛みあり。
   死ぬならば、
   ふるさとに行きて死なむと思ふ。
              啄木

【碑文・拓本の解説】
 啄木が亡くなる10ヵ月前に病床で作った歌で、身につまされる思いがする。没後、刊行 された『悲しき玩具』に収められている。
 「石川啄木慰霊塔」周辺には啄木の歌碑が多く建立され、ふるさとが歌われている。その中の啄木歌碑1号碑(大正11年4月13日建立・啄木の死から10年後)には、東京で故郷を想いながら詠んだ歌
「やはらかに柳あをめる 北上の岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに」
(歌意:やわらかい新緑の柳が北上川の岸辺に見える まるで泣けと言っているように)
  が刻まれており、望郷の想いを象徴する風景として多くの愛好者が訪れている。

石川啄木第1号歌碑1922(大正11)年4月13日建立
場所:盛岡市玉山区渋民 「渋民公園」
↑石川啄木第1号歌碑 1922(大正11)年4月13日建立
場所:盛岡市玉山区渋民「渋民公園」。背景の山は岩手山
石川啄木(いしかわ たくぼく)については前述ページも参照

23 伝 藤原経清(つねきよ)の母の墓所・供養碑の拓本
(平成20年 岩手県紫波郡紫波町赤沢・白山神社)


 紫波町教育委員会から岩手拓本研究会に採拓の依頼があり、谷藤總夫先生の助手として参加し、嘉暦四年(1329年)の年代が刻まれた歴史ある石碑の採拓に緊張した。
 石碑の表面は起伏が多く、何度も和紙を移動しながらの作業だった。一度目・二度目失敗、三度目にようやく先生の納得のいく拓本が採れた。

藤原経清の母の供養碑(右側)
↑藤原経清の母の供養碑(右側) 藤原経清の母の供養碑の解説図
藤原経清の母の供養碑の拓本
  ↑藤原経清の母の供養碑の拓本

【碑文・拓本の内容】
 上記解説図参照。図をクリックすると拡大表示。

【碑文・拓本の解説】
 三つの梵字(ぼんじ・サンスクリット語)が阿弥陀三尊(あみださんぞん)を表し、その下に刻まれているのは、妙法蓮華経 第一巻に記されている文字と同じで、

如我昔所願(我が昔の所願のように)
今者已満足(今はすでに満足している)
化一切衆生(一切の衆生を教化して)
皆令入佛道(皆仏道に入らせた)

 如=ごとく。〜のように。
 所願=しょがん。神仏に願っている事柄
 今者=いま
 已= すでに
 化=教化(きょうげ)する。善行により人々を安寧に導く(仏教語)
 一切=全て
 衆生=しゅうじょう。人々。生けとし生きるもの。
 令=しむ。…を〜させる。

 中央に書かれた
             道成
嘉暦四年己巳七月廿三日
             敬白

 は、道成という人が施主で、嘉暦(かりゃく)四年(1329年・鎌倉時代末期)7月23日にこの碑が建立された事を示している、と考えられる。「己巳(つちのと み)」は干支の一つ。「敬白」は、「うやまい謹んで申し上げる」の意。

・藤原経清(ふじわらのつねきよ)
 平泉藤原氏の始祖、藤原清衡(きよひら)の生父が藤原経清で、十一世紀の始めに1000年〜陸奥守(むつのかみ)の郎従として下向し亘理(わたり)郡(宮城県亘理郡)を所領、藤原経清の父の藤原頼遠(よりとお)は下総国(しもうさのくに・千葉県)に住んでいた豪族といわれる。
 この藤原氏は関東に土着した藤原秀郷(ひでさと)の分流で藤原経清は亘理権太夫(わたりのごんのたいふ)・亘理守という官職だった。どういうわけか藤原経清は奥六郡の郡司、安倍頼時(頼良)の娘婿でもあった。
 前九年の役(1051〜1062年)で安倍頼時(あべのよりとき)が源頼義(みなもとのよりよし)と対戦することになったとき、経清は安倍頼時の娘婿の平永衡(たいらのながひら)と共に源頼義の軍に参じたが、平永衡が心の中を疑われて源頼義に殺されたのに動揺し、「安倍氏が多賀城奇襲」の流言を放って国司の源頼義軍を多賀に退却させ、その間に経清は私兵八百と共に安倍頼時のもとに走った。それからは安倍貞任(あべのさだとう・頼時の子)とともに指揮官の一人として抵抗を続けたのだ。

 源頼義軍は苦戦を強いられたが、1062年7月、出羽国仙北(秋田県)の清原氏が源頼義軍に味方して進軍し、これを機に源頼義軍は攻勢を強め、安倍氏の拠点である厨川柵(くりやがわのさく・盛岡市天昌寺町付近)を陥落させた。安倍貞任は戦死、藤原経清は捕らえられ、苦痛を長引かせるために錆びた刀で鋸引き刑のごとく斬首されたという。

 その時、経清の一族である遠山師重(とおやまのもろしげ)は、経清の居館である豊田館(岩手県奥州市江刺)に祭られていた白山神霊を護持しながら、経清の母とともに赤沢(岩手郡紫波町)の阿弥陀堂の伯父を頼って落ち延びたと言われ、経清の母はこの地で亡くなったと伝えられている。
 この赤沢にある白山神社は、代々遠山家が守り継いでおり、境内には経清の母の墓所があり、母の死後200年以上経った鎌倉時代末期にこの経清の母の供養碑が建立されたものと考えられている。
(参考文献:「赤沢の史談」「紫波白山別当家誌」他)

白山神社の鳥居
↑白山神社の鳥居

伝 藤原経清之母之墓所(標柱)
↑伝 藤原経清之母之墓所(標柱)


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